2016年7月9日土曜日

鎌倉文化 文学・文芸

文学・文芸

この時代の文学の特徴に無常観がある。

『平家物語』冒頭の「諸行無常」は有名であるが、無常観にもとづいて人生を観照しようという態度ですぐれた随筆や評論があらわれた。

鴨長明の随筆『方丈記』が代表的であるが、武士出身の西行が諸国を遍歴して詠んだ歌を集めた『山家集』もその所産といえる。卜部兼好『徒然草』にも無常観はみられるが、長明よりも兼好の方が現世に対する距離が近い。

慈円の『愚管抄』も、歴史の移りかわりに無常をみて、その転変の原因などについて思索した著作である。

 隠棲した人びとの手になるものに優れた作が多いのも、この時代の特徴である。公家の手になるものの多くが創造性や現実主義・写実性を欠き、文学上の新展開を主導できなかったのに対し、隠者は、より自由な立場にあって、客観的な批判精神によって新興階級たる武士の台頭の意味に一定の認識をなし得たことが、その理由として考えられる。

軍記物のなかでもとくに傑作とされるのが、治承・寿永の乱を中心に平氏の興亡をテーマとした『平家物語』である。その内容からは複数の作者の介在が想定され、異本も多い。優れた文学というだけでなく、盲目の琵琶法師によって平曲(平家琵琶)として語り広められて、文字の読めない人びとにも親しまれた。琵琶法師は、平安時代のころから琵琶をかきならしながら叙事詩を語って活躍していたが、楽器の伴奏にあわせて物語に節(メロディ)をつけて語る「語りもの」は、新仏教の形成とともにこの時代を特色づける新しい傾向である。


 歴史物語

 平安時代の『大鏡』『今鏡』を受けて『水鏡』が著されている。いわゆる「四鏡」の第三にあたるが、叙述の対象となっているのは『大鏡』より前の神武天皇から仁明天皇の治世54代の事績である。筆者は、平氏一門と親しく、頼朝や院ともかかわりをもった公家の中山忠親である。長谷寺に参籠した老女がその夜に出会った修験者の語った不思議な体験を書き記したという体裁を採用している。史実は『扶桑略記』をもとに編年体で叙述されており、仏教思想の影響が強いとされる。

歴史研究

 執権政治のもとでの合議制への参加や成文の法典などを定めるようになった鎌倉武士たちも、ようやく内外の文化や学問への関心をいだくようになり、幕府の歴史を編年体でしるした歴史書『吾妻鏡』が編纂された。執権北条時頼の命令によって書かれた公的日記であり、全52巻、頼朝挙兵から1266年(文永3年)までを記述している。鎌倉時代の政治史を知る上での根本史料となっている。

鎌倉時代の史論書として名高いのが、天台座主で九条兼実の弟、また『新古今和歌集』の歌人でもあった慈円の『愚管抄』である。転換期の世相を深い思索をもとに記しており、歴史をつらぬく原理をさぐり、「道理」による歴史解釈をこころみた。『愚管抄』は、一貫して慈円自身が歴史の瞬間に我が身を置き、歴史を追体験するかたちで叙述されており、人間の理解やはからいを超越した歴史の不思議が歴史を動かす力ともなっていること、あるいは、歴史が動くときの軸ともなっていることを「道理」の語で表現しようとしている、との指摘がある。

そして、公家社会の人びとにはどうしても理解できない「武者ノ世」の出現を、道理のしからしむるところと考え、幕府との協調を説こうとした。この著は、承久の乱の直前に後鳥羽上皇の挙兵を知って記されたもので、慈円はこの挙兵を道理に合わないとしてひとつの思想的立場から批判したのであり、また、現実の政治論としての意味ももっていた。


和歌集

1205年(元久2年)後鳥羽上皇の命で、『新古今和歌集』が編纂された。撰者は藤原定家と藤原家隆、源通具、藤原有家、藤原雅経、寂蓮の6人である。後鳥羽院自身も撰歌の配列などに大きく関与した。八代集の最後にあたり、当時の歌人の歌を中心に約2,000首がおさめられ、勅撰和歌集でも傑出したものの一つとされ、優美で技巧的な歌風は、のちに新古今調とよばれた。前代の『千載和歌集』を継承し、さらに感覚的・絵画的ないし色彩的に追究した作風が多い。いっぽうでは、『古今和歌集』へのあこがれと古代王朝国家の盛時を回顧する指向が強く、従来の和歌の伝統を集大成したと評される反面、新鮮さではもっぱら掛詞、縁語、畳語など技巧の点に集中したとも評価される。この時代のおもな歌人には、後鳥羽院、慈円、藤原良経、藤原俊成、式子内親王、藤原定家、藤原家隆、寂蓮、藤原俊成女、西行などがいる。

新古今和歌集の歌

見わたせば花ももみじもなかりけり 浦のとまやの秋の夕暮れ (藤原定家)
春の夜の夢の浮橋とだえして 峰にわかるる横雲の空 (藤原定家)
昨日だにとはむと思ひし津の国の 生田の杜に秋はきにけり (藤原家隆)
ほのぼのと春こそ空に来にけらし あまのかぐ山霞たなびく (後鳥羽上皇)
見わたせば山もとかすむ水無瀬川 ゆふべは秋と何思ひけむ (後鳥羽上皇)
いま桜咲きぬと見えてうす曇り 春に霞める世の景色かな (式子内親王)
うちしめりあやめぞ薫るほととぎす 鳴くやさつきの雨の夕暮 (藤原良経)
寂しさに堪へたる人の又もあれな 庵ならべむ冬の山里 (西行)


歌をよむことは教養のひとつでもあった。3代将軍源実朝は藤原定家に学んで、しかも万葉調とよばれる歌をよみ、『金槐和歌集』を残した。これは、実朝が後鳥羽院を尊敬し、王朝文化に親しみをいだいていたことの現れであったが、同時に執権北条氏の強い警戒をまねくところとなった。このように、公家文化に対するあこがれから、作歌にはげむ武士も少なくなかった。